オリンピアンの系譜 第4回 田代恭崇〈前編〉"サイクリング部から日本一に"

 バルセロナ1992オリンピックに藤田晃三を送りだしたあと、華々しい結果を残せずにいたブリヂストンサイクリングは、96年、ヨーロッパで活動していた浅田顕を迎えて再スタートを切ることになる。そして、その浅田が当時、若手を育成していたチームから、ブリヂストンサイクリングに抜擢されたのが田代恭崇である。スポーツバイクと出会ったのは大学生になってから、ただただ自転車に乗ることが楽しくて仕方がない若者は、全日本選手権を二度制し、オリンピアンとなる道を歩みだしたのだった。



Tシャツを着て走った初レース

 リマサンズ厚木が選手募集――1995年の秋、自転車専門誌に載っていた小さな記事に目が留まらなければ、田代恭崇はまったく別の人生を歩んでいたかもしれない。

 リマサンズ厚木は、ブリヂストンサイクリングから日本初のロードプロとなり、ヨーロッパ――おもにフランスを拠点に活動していた浅田顕がスポンサーを得て、93年につくったチームだ。そして95年といえば、浅田が現役引退を表明し、リマサンズ監督との兼任を条件に、ブリヂストンサイクリングの監督就任を打診されていた頃にあたる。

 田代は当時、大学3年生。サイクリング部の活動とアルバイトのかけもちに忙しい「ふつうの大学生」だったという。都立高校時代はモトクロスバイクでツーリングやレースに熱中。「バイクの練習をするため」に埼玉県坂戸市にキャンパスのある大学に進んだのだが、なぜか、友人から譲ってもらったマウンテンバイクにハマってしまった。
 埼玉のサイクリストにとってメッカである白石峠や定峰峠がキャンパスから近く、定番の練習コースだったという。ただ、はじめて白石峠(距離約8km、平均勾配8.5%)に連れていかれたとき、「足を着いて休まずには上りきれなかった」とは、いまでは笑いのネタだ。

「夏休みは毎年、北海道で1カ月半、ずっと自転車に乗っていました。旅費がもったいないから、北海道までキャンプしながら自走していくんです」

 それほど走っていても「どこを走ったのか」と聞かれると、まったく覚えていないという。

「自分の力でスピードを出せるのが楽しくて、走ることにしか興味のないタイプ(笑)」

 レースと名がつくものにはじめて経験したのも、サイクリング部の仲間と参加した8時間耐久レース。ひらひらとTシャツをはためかせて走ったという。たまたま部室に先輩が残していったアルミのロードバイクがあったこともあり、やがて競技としての自転車に興味をもつようになる。試しにJCRCに参加してみると、とんとん拍子にSクラスに昇格。上りの厳しい日本サイクルスポーツセンターでのレースやヒルクライムでは優勝も。そこで自信をつけた田代が、思いきって声をかけ、練習に加えてもらうようになったのが、"パインヒルズ '90"の大塚和平さんだ。
 大塚和平さんといえば、浅田顕監督がロードレースへの道を歩みだすきっかけとなった中学校時代の恩師。これも、なにかの縁か。

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日本の名門チームへ、そして "本場"へ

 さて、話は冒頭へもどる。レジュメを送ると「浅田さんから一度会いましょう、と。忘れもしない、大学の近くのファミレス」。まだ自転車歴3年に満たず、経験したレースの数も両手の指で数えられるほどだったが、田代は浅田監督の面接試験にパスし、96年、リマサンズ厚木に加入する。両親には「2年間で結果を出すから、自転車をやらせてほしい、と話して納得してもらった」という。
 神奈川県厚木市にあった合宿所で暮らし、アルバイトと練習、レース、ときどき大学へという日々。チームメイトはみな競技歴をもっていたが、「年齢では自分がいちばん上だったので、キャプテンをやれ、と(笑)」。
 田代が大学を卒業した97年、リマサンズ厚木はツール・ド・北海道参戦のチャンスをつかむ。海外チームが圧倒的な強さを見せつけた年だったが、山岳ステージで田代は「日本選手のなかでは4位、全体でも10番台」という成績を残す。

「自分は平坦が得意じゃないから遅れてしまう。それをチームメイトが集団に戻してくれたおかげ」

 このステージ、最後に残った日本選手は安藤康洋(ミヤタ)、柿木孝之(日本鋪道)、栗村 修(シマノ)、そして田代の4人。

「柿木さんには、峠を上りながら『がんばれ』と声をかけてもらいました」

 その年の暮れ、まさにクリスマスの日に、浅田監督から田代に大きなプレゼントがもたらされる。ブリヂストンサイクリングへの移籍だ。

「いまだから話せるんですが、実際のところは、浅田さんが移籍をあてにしていた、ある選手が入らず、空きが出たらしい(笑)」

 なにはともあれ、両親と約束した2年間で結果を出したことになる。
 田代が加わった98年、ブリヂストンサイクリングは全日本選手権で惨敗を喫する。表彰台どころか、20位までに一人も残れなかったのだ。その年のシーズンオフ、浅田監督は思いきった補強を行う。98年のナショナルチャンピオン藤野智一と、ベルギーを拠点に活動していた橋川健を加入させたのだ。

「99年は強かったですよ、藤野さんが全日本連覇で、橋川さんがツール・ド・北海道総合優勝」

 戦力強化がなると、浅田監督は、若手の田代をフランスのアマチュアチームに派遣する。2000、2001シーズンに所属したのは、フランスのカテゴリーで下から2番目の小さなチームだ。
 アマチュアの下部レースであっても、フランス語を解さない、童顔な日本人を寛容に迎えてやろうというほど本場は甘くない。レースに出場すると日本の人気キャラクターの名前で呼ばれながらジャージをつかまれて、集団からつまみだされかかったことさえある。

「当時、浅田さんはリマサンズの選手たちもフランスに送り込んでいたので、レースに行くとみんなに会えて、ようやく日本語がしゃべれる、という環境だった」

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冷静な読みでつかんだナショナルチャンピオンジャージ

 2001年6月、田代はフランスから一時帰国し、全日本選手権に出場する。会場は北海道大滝村(合併により現在は伊達市)。1周12.9kmを14周する180kmのレースだ。

「この年の全日本は、ほぼ上りと下りしかないコースで、上れなければまずお話にならない。当時、自分が走っていたのは、パリの北の方で丘くらいしかないところばかりだったけれど、『田代、いちおう上れるだろ』と」

 チームとしてヨーロッパ参戦に取り組みはじめていたこの時期、浅田監督にとって是が非でも全日本選手権で勝っておく必要があった。「チームにナショナルチャンピオンがいるというだけで、ヨーロッパのレースに招いてもらえるチャンスが増える」からだ。
 レース終盤、チーム ブリヂストン アンカー(当時のチーム名)で残っていたのは、田代、橋川、福島晋一。

「フグ(福島)は調子がイマイチで、橋川さんも『もうムリ』と。死んでも勝つしかないと腹をくくりました」

 ラスト2周、後続に1分半以上の差をつけて、先頭は田代、田中光輝(愛三)、狩野智也(シマノ)の3人になる。
 ラストラップ。ゴールは下りの先だが、「下りきったところから道幅が一気に狭くなるんです。狩野さんは下りがそこまで得意じゃないから、自分が後ろについて、田中さんを行かせてしまったら勝ち目はない、と」。

状況を冷静に見ていた田代、最後は田中に2秒の差をつけ、両腕を高々とあげてフィニッシュラインを越えた。

「ゴールスプリントになったとしても負けない、それだけのことはフランスでやってきた」とも思っていたともいう。

 浅田監督の面接を受けてから5年でつかんだ日本一の座。ふだんクールな監督も目を赤くし、涙をぬぐうのだった。
 ここから、田代は浅田監督やチームメイトとともに世界最高峰のレースをめざして、無謀にも見える戦いに飛び込んでいくのだが、それは後編にて。

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田代恭崇 Yasutaka Tashiro

1974年6月7日生まれ、東京都杉並区出身。城西大学に入学後、友人のマウンテンバイクに乗ったのがきっかけでサイクリング部に入部。キャンプツーリング三昧の青春を送っていたが、仲間と参加したエンデューロを入口にレースの世界へ。96年、大学4年生でリマサンズ厚木に加入し、本格的にレース活動を開始。98年よりブリヂストンサイクリング。2007シーズンをもって引退し、08~13年、ブリヂストンサイクルの社員として販売促進や商品企画に携わる。現在は神奈川県藤沢市で"Linkage Cycling(リンケージサイクリング)"を運営し、スポーツバイク、サイクリングツーリズムの普及に取り組んでいる。

現役時代の主な成績は以下のとおり。

2001年 全日本選手権優勝
2002年 GP Esperasa(UCI 1-6)優勝、ツール・ド・北海道ステージ優勝
2003年 Prix des Bles d'Or(UCI 1-2)優勝、B世界選手権10位
2004年 全日本選手権優勝、アテネ2004オリンピック57位
2005年 ジャパンカップ7位、ツール・ド・おきなわ優勝
2006年 ツール・ド・台湾ステージ優勝

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