オリンピアンの系譜 第3回 鈴木雷太 〈前編〉  "松本から世界へ"

1995年、ブリヂストンサイクルに誕生したマウンテンバイクチームに、3人の若者が契約プロライダーとして加入する。いちばん若い鈴木雷太はロードからの転向。アトランタ1996オリンピック代表選考レースをセカンドパックで走りながら、密かにシドニー2000オリンピック代表の座を見据えていたという。

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ツール・ド・フランスに魅せられて

 長野県松本市、鈴木雷太のショップ"BIKE RANCH"には、二台の古いマウンテンバイクが置かれている。一台は、雷太がシドニー2000オリンピックに出場した当時のアンカー。もう一台はさらに古く、30年以上前に雷太がはじめて買ったもの――オリンピアン鈴木雷太の原点となったバイクだ。

 雷太が中高時代を過ごした1980年代は、いまにつながるスポーツバイクブームが日本に到来した時代だ。アメリカ人の"遊び心"から生まれたマウンテンバイクとトライアスロンが、スポーツバイクと縁のなかった人たちの好奇心や挑戦心をかきたてる一方、NHKが放映したツール・ド・フランスによってヨーロッパ伝統のロードレースに多くの人が魅了された。いまでも、自転車をはじめたきっかけを問われて「NHKでツールを見て」と答える年輩のサイクリストは多いが、雷太もその一人だ。
 将来の目標がロードのプロになること。しかし、進学した愛知県岡崎市の高校に自転車競技部がなかったこともあり、名古屋のショップ"カトーサイクル"のチームに所属して実業団レースに参戦。高校卒業後は、カトーサイクルで働きながらレース活動を続けていたが、やがて拠点を関東へ。アルバイトで生活をしながら、クラブチーム"サーティワン"で走る。

「当時、ツール・ド・中部というステージレースがあって、愛知選抜チームで出たんだ。タイムトライアルが上りの厳しいコースで、愛三工業より速かった」と上りでは抜きんでてはいるものの、プロへの道は険しかった。
 転機をもたらしたのは、オフシーズンに参戦していたシクロクロス。21歳のとき、関係者の口利きで3カ月間、シクロクロス修行にオランダへ。ホームステイ先が、なんと当時のオランダのマウンテンバイクナショナルチームのコーチ宅。そこで、マウンテンバイク転向を強くすすめられたのだ。

 アトランタ1996オリンピックにて、マウンテンバイクXCが新競技として追加され、日本国内でもジャパンシリーズが盛り上がりを見せていた。黎明期のマウンテンバイク全日本選手権やジャパンシリーズには、ロードの有力選手がしばしば参戦していたが、ブリヂストンサイクルの三谷寛志もそのひとりだ。現役を退いたあと、松本に拠点を移していた三谷を監督に、95年、ブリヂストンサイクル マウンテンバイクチームが誕生する。松本に住むことを条件に白羽の矢が立った3人の一人、というか3番目のライダーが雷太だ。いわば、アトランタの次を狙える"期待の若手枠"。

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セカンドパックのプリンスから日本のエースへ

 96年、オリンピック代表選考に設定されたジャパンシリーズでは、4位、5位といった成績が続く。端正な面立ちに、ある自転車誌の編集者が言い出したニックネームが"セカンドパックのプリンス"。だが、プリンスはその定位置で「次(シドニー2000オリンピック)は行ける」と手ごたえをつかんでいたのだった。
 アトランタからシドニーへの4年間は、雷太を中心に70年代生まれの若手の台頭が目覚ましい時代だった。このころ、いわゆるマウンテンバイクブームもピークを迎え、白馬岩岳や八ヶ岳山麓のイベントレースには数千人がエントリーする盛況ぶり。しかし、その頂点のレースを走る選手すべてが、それだけで食べていけるほど甘くない。セカンドパックのプリンスが優勝争いの一角を占めるようになったのには「会社(ブリヂストンサイクル)のサポートが大きかった」と雷太は振り返る。
 実は、松本へ来てからも選手活動のかたわら生活費の補填にアルバイトが必要だったという。名実ともにプロの選手としてやっていけるようになったのは、3シーズンを経た98年。

「雷太にお金を使うと成績が上がる、と(会社が)評価してくれた」

 専属のメカニックが帯同するなど、シドニー2000オリンピックを狙うための態勢が整えられていく。そして、いつのまにか松本周辺には強力なライバルであり、よき練習仲間でもある面々が集まってきていた。野口忍、山口孝徳、後藤新作、ブリヂストンサイクリングの後輩である宇田川聡仁。彼らはオリンピック前年の秋、1999アジア大陸選手権に雷太とともに出場したメンバーだ。
 シドニー2000オリンピックに出場するためには、このアジア大陸選手権で優勝し、日本に出場国枠を持ち帰らなくてはならない。

「みんなオリンピックを意識していて、チームを超えて獲りにいこう、と話していた」

 マレーシアで行われたレースでは、のちにロードに転向し、レディオシャック入りすることになるリ・フユ(中国)が日本勢の前に立ちはだかった。それをかわし、雷太がトップでフィニッシュゲートに飛び込む。
 1枠とはいえ、日本にオリンピック出場権をもたらしたことは喜ばしい、しかし「ちょっとビミョーだったかな」と雷太は振り返る。出場権を獲得したからには、オリンピック代表の座を狙っていくつもりだったことは言うまでもない。99年はジャパンシリーズの年間チャンピオンも獲得。

「まわりは、すっかりオリンピック代表に決まったように盛り上がっていた」

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 2000年4月、かつてない重圧を背負ってジャパンシリーズが始まる。4~6月の4レースがオリンピック代表選考会を兼ねていたのだが、開幕戦で大番狂わせが起きる。竹谷賢二の優勝である。前年までシリーズランキング10位に入るか入らないかというポジション、しかもサラリーマンをやりながらレース活動を続けてきての急成長。一躍、オリンピック代表候補の一角に躍り出る。
 いっぽう、万全のコンディションとは言えないまま開幕戦を迎えた雷太は、竹谷に次ぐ2位。さらに第2戦はパンク、第3戦は独走するもラスト1kmでチェーントラブルに見舞われ再び2位――。

「開き直って、いちばん落ち着いていた」と振り返る最終選考レースで優勝したことにより、ついにシドニー行きの切符をつかむ。
「家族、会社、サポートしてくれた人たちが自分以上に喜んでくれた」が、あとになって思えば「オリンピックに出るということが目標になっていたかもしれない」と話す。
 シドニーへ出発する前、ある壮行会の場でずばり「何位をめざすのか」とたずねられたことがある。オリンピックのXCレースに出場する選手は50人。アトランタ1996オリンピックでは日本代表の三浦恭資が26位で完走している。

「それもあって、半分の25位が目標と答えたんだけど、たずねたほうは『せめて15位以内くらい言うものだろう』と」

 実際に、雷太がオリンピックで15位以内を目標に掲げたのは、結果を残せずに終わったシドニー2000オリンピックのあとだ。
 それには、まずアテネ2004オリンピックに出場することはもちろんだが、2つ以上の出場枠を日本チームとして獲得したい、という思いもあったという。

「国別ランキングで日本は30位くらい。国内にいて、アジア大陸選手権と全日本選手権だけを狙っていたら、いつまでも1枠だけしか回ってこない」

 シドニーとアテネ、ふたつのオリンピックのあいだ、雷太はチームメイトの宇田川とともにアメリカとヨーロッパのレースを転戦していく。

「アメリカではいい位置で走れるようになったんだけれど、ヨーロッパは厳しかった」

 当時のヨーロッパのレースは予選だけで400人が出走し、「ウダ(宇田川)と自分とどちらかがぎりぎり(本戦に)出られるかどうか」。アメリカとヨーロッパの違いについて、雷太はこんな話もしている。

 「シングルトラックの入り口で、アメリカでは選手が一列に並んでいざこざもなく入っていく。それがヨーロッパでは、前の選手のジャージを引っ張ってもコーステープをちぎってでも我さきに行こうとする。(マウンテンバイクが)遊びの延長として生まれた国と、自転車競技の本場との差だね」

 このころの自身を「(成績の)乱高下が激しくて、精神的にも少し不安定だったと思う。目標は明確でも、そこに至るプロセスを数値化できていなかった」と振り返る。アテネ2004オリンピック代表の座は竹谷賢二が奪取。

「竹谷さんは2000年に口惜しい思いをしたあと、きっちり数値化してやってきていたんだと思う」

 鈴木雷太の回・前編、最後に彼らしいエピソードをひとつ――。アテネ2004オリンピックに雷太の出場こそ叶わなかったが、ブリヂストンサイクリングは、ロードレースにバルセロナ1992オリンピック以来の代表を送りだす。その選考レースとなった全日本選手権、スタートラインには、チームの一員として雷太の姿もあった。会場は日本サイクルスポーツセンター。チームは田代恭崇と福島晋一のダブルエースで臨んでいた。

「(当時の監督の)浅田さんから細かな指示はなかったんだけれど、とにかく最後までエースをアシストしてくれ、と」

上りの厳しいコース対策に、監督もロードチームのメンバーも雷太の実力を見込んでいたということだ。
ブリヂストンサイクリング対シマノレーシングの様相を呈したこのレース、田代が最終周に抜けだし独走で全日本チャンピオンとオリンピック代表の座を獲得したのだった。

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鈴木雷太 Raita Suzuki

1972年8月11日、愛知県岡崎市出身。自転車を趣味のバス釣りに行く足にしていた少年時代、テレビで見たツールに魅了されてロードプロをめざす。高校卒業後、ロードのクラブチームを経てマウンテンバイクXCに転向。1995~2007年、契約プロライダーとしてブリヂストンサイクルに所属。99年アジア大陸選手権優勝、2002、05年マウンテンバイク全日本選手権優勝。シクロクロスでも99年に全日本選手権優勝。現在は、マウンテンバイクナショナルチームのコーチを務める。

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