【MTB平野の引退】12年間のレース人生を振り返る[前編]:平野が唯一無二のレーサーとなるまで

【MTB平野の引退】12年間のレース人生を振り返る[前編]:平野が唯一無二のレーサーとなるまで

*2021年全日本選手権レースを最後に、選手を引退した平野

2021年11月21日、TEAM BRIDGESTONE Cycling MTBチーム選手の平野星矢は、2021年MTB全日本選手権を走行し、そのレースを最後に選手活動から引退することを表明しました。

平野の最後となるこのレースでの、結果は7位でした。全日本選手権とアジア選手権、これら狙った1レースにのみ集中する、という近年の彼の走りのスタイル。21年もこの全日本選手権以外のレースには出場しなかった平野はそのために、2列目以降のスタートとなりましたが序盤からすぐにトップ争いに加わります。

しかしレース中盤でリムが破損、タイヤの空気が抜けて順位を落としました。このトラブルがなければ、そのままトップを争う位置で走り続けたでしょう。

平野選手は、最後まで強い選手であり続けました。12年前にU23のチャンピオンの称号とともに、チームブリヂストンで初めてプロMTB選手となった平野は、その強さのままに常に強くあり続けました。

勝利はもちろんのこと、順位の先にある強い自分を見つめ続けたMTB選手。勝てなくなったからレースを辞めるのではありません。彼の次のキャリアは植物です。大好きな植物に携わる生活、仕事をしたいという目標のため、プロ選手生活にひと段落をつけ、新たなステップへと進みます。



レース後引退セレモニーの動画


*特殊な選手であり、他には真似のできない存在だった


平野はとにかく特殊な選手でした。

・植物を愛しレース会場にも持ち込むほどの愛で方。

・走り込むのではなく見知らぬ道を旅し走り続けることで強くなる独特の練習方法。

・狙ったレースへの異常なまでの集中とそれが許される環境。

・まさに唯我独尊たる己の価値判断を最良の指針として強くなり続けた、唯一無二の選手。


「いろいろやろうとしてしまうと、どれもうまくいかなくなるので、一つだけに集中してやります」(平野)
その日本刀のような切れ味で12年間のプロ生活の間、多くの選手に後塵を拝させました。

最後のレースを終えた平野を、レース会場が祝福してくれました。ゴール地点で平野の引退セレモニーが始まります。平野に花束を渡したのは、平野が12年間狙い続けた全日本チャンピオンのタイトルをこの日獲得したチームメイト、沢田時でした。

時に寂しいプロスポーツ選手の引退のシーンで平野は、ビッグレースで花束を渡されて祝福され、次のキャリアを決めて勇退しました。
チーム選手として走って12年、プロレースアスリートというより1人の旅人であった平野星矢の選手としてのこれまでを、平野の言葉で綴ります。



*獲得標高650mの通学路を毎日通い、卒業後に専門学校のMTB学科へ


「自分は高校の時に帰宅部だったので、高校を出た後に運動したいなっていう欲求のようなものがあって。それを満たすために大学にいくでもないし、就職したいことも、それもちょっとわからず。

父が大学の先生で、野外教育をしていました。だから登山とかがいいんじゃない? という感じで父にアウトドアの専門学校を教えて貰いました。その体験入学に行ったとき、登山よりも自転車の方が専門家として毎日乗れるよな、と思ってマウンテンバイクの学科を選びました。

もともとママチャリで結構走っていて、休みの日に100キロとか150とかママチャリで普通に走っていました。高校の通学が20キロぐらい離れてて、僕の家は山の途中にあったので、行きは下って、帰りはもうずっと上ってきて、獲得標高も毎日650mぐらいありました。

専門学校はもともと、3年間をかける部活というイメージでした。体を動かして発散する。でも、この入学をきっかけに自転車のレースに出なきゃいけなくなったんです」


*プロ選手にはなりたくなかった、レースを走りたくなかった


「僕は、あの、基本的にレースには興味がなくて。世界一周とかそういうのがやりたかったんです。でも学校の単位のためレースに出なきゃいけなくて。それで走っているうちに2年目でエリートクラスに上がって。アンダー23でも勝って、世界選手権に行く機会もあったりしました。

それでもプロ選手になることには憧れもなく、3年間で学校をやり切って競技を辞めるつもりでした。ですが、3年目にタイ合宿にいく機会がありました。これは新城幸也さんや山本幸平さんといった自転車プロ選手が集うタイでの合宿で、これに参加する機会を頂いたんです。

ここで海外を走って、楽しいなと思いました。プロになりたいという意思もなかったんですが、ただ単純に、その楽しいなあっていうか。『世界の競技』というよりは『海外の生活』というか。海外で練習したり、知らない文化や違う食べ物だったり、まあそこの人とのコミュニケーションだったり。こうして海外行くと、いろいろ面白いなと思って。

だからプロになりたいとか、先のことを考えたというよりは、またタイ合宿に行きたいなっていう気持ちでレース活動を続けたんです」


*「順位の向こう側にある走り」にこだわっていたフランス時代


「それまでもブリヂストンからフレームをサポートしていただいていたんですが、2010年からチームに入れるよ、ということになって、チームに加入しました。同時にフランス遠征へと出るように。それで海外遠征に出れるようになって。

当時はフランスで活動する幸平さん(山本幸平さん)と日本で走る辻浦さん(辻浦圭一さん)とで、別の活動チーム活動みたいな感じになっていて。で、僕は幸平さんの方に行くことになったんですね。

僕は基本的にアジア推しなんですが、地中海よりはヨーロッパの中でもまた感じが違っていて。陽気で、植物とかも、なんか文化として豊かですね。何百年もそこにある建物の景観と、ぶどう畑を眺めながらお茶を飲んだりご飯を食べたりとか。オープンっていうか、なんかいいなあって思いました。まあ、タイもそういう感じなんですけど。

そういう海外に行けるのっていいなあ、という気持ちでプロを続けてきました。まあ当然、プロ選手である以上、勝つ負けるというのは重要ですし、今も特にこだわってやっています。でも若い時の方がこだわっていたかもしれないですね。フランスで走っている時がいちばん、順位というか走りにこだわってましたね。

成長するためにはどういう走りをしたらいいか。『こういう走りをしていけば、もっと成長できて、いい走りができて、もっといい戦いができるんじゃないか』とこだわって。それは、順位の向こう側を狙うようなものでした。」


*『おひとりさまで強くなる』独自のスタイルを作り出す


「世界に行く機会があって、競技志向は強まりましたが、それまでチームの舵取りをしていた幸平さんが2011年でチームを抜けてしまって。そこから結構チームの方向性がいろいろ惑い始めたんですね。

まあ結局それまでは、エースであった幸平さんのやりたいことを中心に、上手く舵を切ったりしていたんですが、その時代になると、誰に対して舵を切っていくのか分かんない。みんなが好きなことをするだけならいいのですが、それぞれがお互いの状況と考え方を理解できず、すれ違っていく。そういうのに疲れてしまって、2012年ぐらいはパフォーマンスが落ちていきました。

その後、斎藤亮さんがチームに入ってきて、亮さんをエースとした舵取りになってからは、やりやすくなりました。自分は、なにかをしなくちゃいけないっていう状態から解放されたんですね。自由な時間と行動の制限がなくなってから、その時はまた順位も上がってきましたし。

それに、自分に合わせた練習とか、組み立てがしやすくなってきたのもこの頃です。自分は独自路線で、海外に自転車持って走りに行く練習を始めてました。

これが今、自分の中で考えていること、それが今に繋がっている感じの練習とか練習方法につながっています。自分のやり方を確立できていて、『もうここには触れないで、直さないで』』っていうやつです(笑)」



独自の練習スタイルとレースへの取り組み。孤高のMTB選手とも称され、そして多くのファンを魅了してきた平野星矢の引退に際する言葉。

次回の後編では、その独自無二のスタイルができてからの平野。彼が見続けてきたもの、選手としてのモチベーション、そして最後まで最大のライバルであった元チームメイト、山本幸平さんについて、話を聞きます。


>>後編へ続く

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