あんかーちょうちん
鈴木雷太

ANCHOR-CHOCHIN
土俵際で強さを発揮し続けた勝負師人生
vol.1
Photo by Natsu Tanimoto

お酒は呑んでも呑まれるな、とはよく言われます。お酒は人の口を滑らかにして、ついつい口をも滑らさせる潤滑油だからです。そんな高性能オイルを使って、往年のアンカーチームレーサーから、昔は言えなかったぶっちゃけ話をスルスル引っ張り出すコーナー、『あんかーちょうちん』へようこそ。

今回からは、MTBクロスカントリーのレースで勝ちまくり、シドニー五輪にネオコットフレームで出場したアンカーの名選手、鈴木雷太さんの出番です。

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2000年のシドニー五輪出場の前後数年に、アンカーMTBチームの常勝を牽引し続けた雷太さん。その後はMTB界全体の親分的な存在としてレース界に言葉通りに君臨。いく人もの若手選手を見出し、トップ選手へと育成したMTBレース界に冠たる指導者として知られています。

ビールで乾杯の後は雷太さんが大好きなお酒、ハイボールを何杯も注ぎながら、その常勝時代、そしてシドニー五輪出場時のエピソードへと迫ります。

『勘違い』からのオランダ行き、そしてブリヂストンへ

——雷太さんはレーサーとして走られる前、自転車屋さんで働いていらっしゃったそうですね。

中学生の時に釣りが流行っていてさ。自転車に乗って釣竿持って、いろんなとこ行って釣りしてたんだよね。そんなときにNHKでツール・ド・フランスを見てさ、憧れてね。中古のロードレーサーを買って、どんどん距離を乗ってくようになっていって。それで、じゃあ本格的にロードレースをやろうと思って、地元ショップのチームに入って走ってみたんだけど、プロとか実業団どころか、全然弱くて無理無理で。それでもやっぱり強くなりたくて、高校を卒業して、走りながら仕事できるってところは自転車屋しかなくてね。朝走って、昼働いて。

当時、地元に愛三工業っていう実業団チームがあってさ、そこの練習に混ぜてもらってたんだよ。毎週の休み、水曜日に練習に行ってたんだよね。それでも走り初めの1年目はやっぱりダメでさ。でもそのうち、インターハイにも出たっていう高卒のすごい子たちとも練習するようになって、彼らとも張り合うようになってきた。

それで「これはオレ、仕事やめたら、なかなかイイとこまで行くんじゃないの?」みたいに勘違いしちゃってね。で、3年間自転車屋に勤めたあと、21歳で当時流行りのフリーターになって、実業団を目指そうってことにした。

——『勘違い』の勢いで、仕事辞めてプロを目指すフリーターに! いきなりの大博打ですね。勝負師・鈴木雷太は、勝負師になる前から大勝負に出た!

それでもさ、お店を辞めたのは1月だったんだけど、その直後のシクロクロスレースに出たら、2位だか3位になったんだよね。雪のレースだったんだけどオレ、乗るのはうまかったからさ。その結果もあって、東京に母体がある実業団チームに、レースに出たいんで、ってお願いして入れてもらったんだ。そのまま埼玉県の上福岡に引っ越してきて1年ロードレースを走ってた。そんなことをしてた秋に、シクロクロスでオランダにいってみないかっていう話が来たんだよね。

当時オランダとの交流は日本のチームは深かったんだよ。今、ミカちゃん(荻島美香=元シクロクロス・マスターズ女子世界チャンピオン)の旦那さんのシャーク(シャーク・ファンデルループ=元シクロクロス選手)もいたってのもあったよ。で、オランダにその年の10月末から2月上旬まで、あっちのシーズンをまるまる現地のチームに混ぜてもらってさ。

で、日本に帰ってくる直前に、現地でお世話になってた人が、オランダのナショナルチームのコーチをしていたんだ。その人に「君はロード向いてないから」って(笑)。マウンテンの方がいいぞって言われてね。

で、帰国して、シクロクロスで親交のあった三谷(寛志)さんに、ブリヂストンのチームに入れてくれってお願いしたんだ。ブリヂストンのチーム選手だった三谷さんが、ちょうど選手を引退して監督になった時だった。

2年後の1996年のアトランタ五輪でMTBが正式種目に決まってさ、それでブリヂストンが新しくMTBチームを新しく作るってことになっていたんだ。で、チームには3人契約する予定だったんだけど、契約の問題で2人になっちゃって、ちょうど空きが出た。そこに俺が帰ってきて、 空気も読めないなにもわかんない二十歳そこそこの小僧がさ、ノホホンと「入れてください」って直談判。それでOKが出た。それが94年のことだね。

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——突然にプロチーム入りのお願いで、OKがでたんですか! まあシクロクロスで実績があったからこその行動と結果なんでしょうけれど。。。その三谷さんの選択眼が鋭かったのか、勝負師の本領発揮ってことでしょうか。

でもその下地はあったんだよ。埼玉にいた頃出てたロードレースではさ、上りが強いレースではわりと上位に残ってたんだ。それにシクロクロスって意味では、1995年から2000年まで、毎年シクロクロス世界選手権には行ってるんだぜ。99年には全日本のタイトルも獲ったし。しかもハンドルはフラットバーだったんだよね。あのときはルール的にフラットバーでもよかったんだ(笑)。大変だったけどね。
でもMTBではなかなかトップにはなれなかったんだ。 いつも6番、7番手ぐらいで。 当時の雑誌には「セカンドパックのプリンス」みたいに書かれたりしてさ。その上当時のチームメイト、ウダ(宇田川聡仁=元MTB全日本チャンピオン、JCFナショナルランキング1位を2度獲得)の方が先に勝っちゃってね。ウダは強烈だったな、強かったし。初優勝できたのは98年のレースだったんだよ。

——そこから強かったそうですよね。雷太さんと宇田川さん、この二人で、まさに破竹の勢いでレースを連戦連勝したと聞きますが、そこは二人でなにか綿密な勝利への作戦のようなものを立てていたんでしょうか?

いや、全部が全部うまくいってなかったし、お互いにイヤな奴だからさ、互いにいなきゃいいのにって思ってたところもあったんだけど(笑)。でもやっぱりチームのどっちかが勝たなきゃいけなかったからね。 当時は毎週の連戦スケジュールもあって、コンディションも崩れちゃう。

まあ、でも、はっきり言って楽勝だったね(笑)。ウダと2人で毎週交代、ぐらいの勢いでずいぶん勝ったよ。どんだけ楽だったんだよって話だね。

だから「今週ウダが勝ったから、来週はおれが勝つ」みたいなのはあったね。「明日のレースどうする?」みたいな話を、前日の風呂の中で決めるんだよね。「あのコーナーの先にある最速ライン気がついた?」「コーステープ貼ってませんよね、でもまだ誰も気がついていませんよね」「本番まで走るなよ」とかさ。

たぶん、ちょうど伸び盛りにぴったりハマったんだね。それで自信がついたってのもあると思うよ。それに、いま思えば、みんなレースの戦術を知らなかったんだね。出たとこ勝負で走ってたからね。

あと、いやらしく聞こえるかもしれないけど、やっぱ金だよね。ホントに。勝つと賞金もらえるからバイト休めるし、その分練習もできる体も休められる。純粋にさ、お金っていう後押しはスゴくあったよ。モチベーションにも繋がったし。

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——そういえば当時、長野県の松本に、多くのレーサーで『トキワ荘』のように、共同生活のような生活をしていた時期があったとのことですが。

そうだね。チームに入ってすぐにおれ、松本に移ったんだ。三谷さんがいたからね。それで友達のレーサー連中に「お前も来いよ」なんて言っていたら、いろんな奴が来た。モトヒロ(吉田基弘=元ブリヂストンのMTBチーム員)が来て、ゴロー(筧五郎=現役レーサー、ヒルクライムの強豪)が来て、シンちゃん(池本真也=シクロクロス プロ選手)、ノグねん(野口忍=元MTB XCトップレーサー)、ウダも来て、そのあと宮澤崇史(元プロ ロードレーサー、現チーム/レモネード・ベルマーレ監督)も来た。 プロになってのし上がってやろうという、野心家たちばっかりだったよな。

トイレと寝てる時間以外はみんな一緒だったよ。みんなで飯食って、練習して、近くの温泉行って、戻ってきて夕飯食ってね。オレと何人かは、朝の市場でバイトもしてたんだ。寝て起きてさ、朝6時に市場に行ってもう一回オハヨウゴザイマスってするんだ。

当時は楽しかったね。正直楽しかった。だって平日のロード練習に、普通に14、5人ぐらい集まってたからね。今ならありえない。みんなヒマだったんだね(笑)。

——そんな野心家が集まっていた中で、シドニー五輪に出場できたのは、雷太さんでした。そんなところにも強さを感じます。

うん。おれ土壇場、土俵際で強いんだよね。これは本当に感じる。例えば96年のアトランタ五輪の時、おれは箸にも棒にもかからないほどの実力だったからね。3つの選考レース全部で5、6番。それでもその時、次はいけるかもしんないって思ってはいたんだよね。

それで近づくにつれ成績も出始めてさ、ものすごい気合い入れまくって、99年、マレーシアのアジア選手権で優勝して、日本の五輪出場枠を1名分獲ってきた。そんなんでさらに気合い入っちゃって、すごく薄いアルミで、ものすごい軽いフレームをアンカーに作ってもらったんだよ。

「これでシドニーは完璧だ」って思ったんだけど、そのフレームが硬すぎて全然走れなくてね。五輪の選考会は4回あったんだけど、1回目は3位、その次はパンクしたんだけど、パンクする以前にもう全然走れなくてさ。もうダメだーって思って、ネオコットのフレームに乗り変えたんだよね。

そしたら3回目の選考会ではぶっちぎりでトップで走れた。これはいけると思ったら、ゴール直前の激坂上りのところでチェーンが外れてエンドとフレームを巻き込んで止まっちゃった。それを外してる間に後続のサイチン(斎藤朋寛=元MTBトップレーサー、現役トップシクロクロスレーサー)が「あれ、これ抜いちゃっていいんですか?!」って律儀に聞いてくるんだよ。「ウルセー、早く行け!」なんて怒鳴って。

結局最後の選考会で優勝して、総合的な成績の判断でシドニー出場がオレに決まったんだけど、これはもう、オレはネオコットじゃなきゃダメだなってのがよくわかった。オレは力でグイグイ踏んでいくタイプじゃないから、脚質的にもネオコットが向いていたんだ。

今でもそうだぜ。フレームは柔らかくしなって進むやつじゃないとダメなんだよな。だからシドニー出場にはネオコットを選んだ。いいフレームだったよ。

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ディスクブレーキに世界が大笑いしたシドニー五輪

——これが雷太さんがシドニーに出場したネオコットですね。このチェーンステーの間にあるはずのブリッヂ(補強)を、雷太さんが現場で切ったという話は、今でも伝説として残っていますよ。

ブリッヂがあるとさ、ドロ最前線のレースで、ドロが詰まるんだよ。あとでフレームビルダーさんに聞いたんだけど、ブリッヂって、フレーム溶接の時の固定みたいなことで必要なだけなんだよ、っていう話なんだね。だったらもう出来上がってるんだから切っちゃえってことになって。試走中の現場でさ。

フレームのその場所の色が黒だったんだ。で、切って、メカニックがやすりがけをするんだけど、下手くそだったんで、結局おれが自分でやってて。で油性ペンで黒色に塗ってね。

あとで開発の人に「フレームの芯がズレるかもしれないからダメだ」って怒られたんだけど、結局その後も問題なくてさ。それでもそれから、アンカーだけじゃなく、他のメーカーのフレームもブリッヂがなくなったんだよね。あれはあれで切ってよかったんだよね。

——そんな雷太さんの思いが詰まったネオコットで、シドニーに出場したと。その当時、周りはアルミフレームばっかりじゃなかったんですか?

確かにアルミが多かったと思うんだけど、それどころかさ、現場でディスクブレーキ付けてたのってオレだけだったんだよね。割と出始めの頃でさ。ディスクブレーキって使った瞬間にオレはすげえいいと思って、しかもドロになったら絶対速いと思って使ったんだけど、当時は相当重くてさ。オランダの連中にすっげえ笑われたよ。こんな重たいもの使えるかよ、って。

しかも当時、MTBはメカニックも連れて行けなかったんだよ、JOCからメカニックのパスがもらえなくて。トラック競技のメカニックの人はいたからさ、この人にある程度は頼んでいたんだけど、レースの前日にディスクブレーキがシュシュシュって擦って音鳴りしてるわけ。で、その人に「直してください」って言っても、「いやあ、ディスクブレーキはわかんないんだよね」ってどうしようもなくて。

結局、公式ではなかったんだけど、MTBのメカニックもシドニー入りはしてくれてたからさ、当日の朝、会場内には入れないからさ、柵の外から手を出してもらって工具を渡してさ、おれが自転車持ち上げて、スタート前にブレーキ調整をしてもらったんだよ。今となってはいい思い出だね、楽しかったよホント。

シドニーは楽しかったんだけどさ、辛かったのは、その後なんだよ。シドニーで一つの頂点を迎えて、その後に日本のレースレベル全体を高めるって目標もあったんだけど、その後の5年間は、ほんとイバラの道でさ。全然うまくいかなかったんだよね。。。

——土俵際での強さ(だけ)で、シドニー五輪に出場した 勝負師・雷太さん。対外的にはここからMTB界の首領(ドン)としての階段を上っていくのですが、本人的には『イバラの道』であったと言います。次回のあんかーちょうちんでは、その雷太さんのイバラの道と、強くなる若手を見抜くその選択眼の秘密へと迫ります!

<Vol. 02へ続く>

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鈴木雷太
長野県松本市のプロショップ『バイクランチ』代表。2000年シドニー五輪出場34位、アンカーMTBクロスカントリー選手としていくつもの勝利を挙げつつ、現在トップで活躍する選手たちを発掘、育成。引退後はMTBレース界のご意見番として苦言を呈し、専門誌でロードからMTBまで車種問わず真価を見極めるインプレライダーとして活躍し、MTBナショナルチーム監督として全体のレースレベルの向上に尽力する。またロングライドイベント『アルプス安曇野センチュリーライド』のプロデューサーでもある。
http://bikeranch.jp
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取材協力/「なっちゃん」
雷太さんにお話を伺ったのは、アンカーの中の人たちの『夜の社食』とも言われているお店『なっちゃん』。選手時代の雷太さんも訪れたこともあり、ママさんである『なっちゃん』の変わらぬ愛らしさと料理を、懐かしみながら楽しんでいました。
埼玉県上尾市浅間台1-4-4
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。