あんかーちょうちん
宮澤崇史

ANCHOR-CHOCHIN
選手・宮澤崇史ができるまで
vol.1
Photo by Kei Tsuji

アンカーチームにはこれまで、伝説を作り上げた名選手が多く在籍してきました。この『あんかーちょうちん』は、そんな往年のチーム員にご来訪頂き、一杯いかがと薦めながら、その伝説のちょっと脇にある、門外不出ギリギリの話を聞き出すコーナーです。

今回、ご一緒させていただく宮澤崇史さんもその1人。簡単にいえば元全日本選手権チャンプであり、海外を中心に活動するチームを渡り歩きながら、確かな実績を残してきた選手です。

2014年に選手を引退してからは、レース解説者として、レース指導者として、さまざまな活躍を続けられています。そんな宮澤さんのレース人生の中、最も大きなエピソードは、選手時代に、お母様に肝移植され、そこから完全復帰して全日本チャンピオンになった、というもの。ですがその話は、ネットを探ればたくさん読めますので、みなさまぜひご一読を。

お酒がグルグル回り始めて滑り出す話を拾うのが、アンカーちょうちんの本領です。まずは生ビールで乾杯し、宮澤さんが自転車選手になるまでの話から始めます。トークの上手な宮澤さんの口の回りが怪しくなるのを、少しずつ待つのです。

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自転車競技をしたくて入った部活、その総部員数は3名

——まずは宮澤さんが、自転車競技に関わったきっかけから教えてもらえますか?

自転車に乗るのはずっと好きだったんです。でも、自転車選手になりたい、っていう感じでもなかったですね。自転車競技って、日常的に周りにあるではなく、月一回、専門誌の写真で見るものでしかなかったんで、あまりリアルな感じではなく、遠くのお話って感じでした。

ボク、中学生の頃に軟球テニスをしていたんです。でも全然ダメだった。ああ、これはオレには向いてないと思ってね。でも自転車に乗っているときは楽しくて、自転車ならいいんじゃないかな、って思っただけなんですよ。とにかく勉強だけはしたくなかったんです。そうなるともう、スポーツしか残されていなかったんですね。それでたまたま自転車だったんです。それだけです。

——それで単純に、自転車部のある高校に入ろうと考えたわけですか。

ボクは長野県出身なんですが、岡谷工業高校ってのが県で一番強かったんです。それに、そこには寮があったんです。スポーツ推薦で入学している人もいたんで、だから「自転車に乗りたい」って言っても入れるんじゃないかと思って連絡したんです。そしたら「地元にも自転車部のある長野工業高校があるから、そこでもでいいんじゃない?」ってアドバイスされてね。ああそうかと思って、その高校を受けて、自転車部に入ってみたら、その実態は「サイクリング同好会」。走った当時の部員は、ボクを含めて3人だけ。

その1人は競輪を目指していた田中先輩。その人はピストしかやらない。もう1人は湯原先輩っていって、ロードをやっていたんですが、そんなに強くなかった。そこにボクが入って部員は3名。「3人でどうすんの?」って感じですよね。ロード練習だって2人しかいないわけですからね。どうにもならない。

そのうち、隣のクラスのヤツが自転車にちょっと興味があって話しかけてきたんで、そのまま入部させて。これでロードを走るのが3人になって。それにクラスに1人、スポーツは苦手なんだけど自転車は好き、ってヤツがいたんで、「これはいいぞ」と、 そいつも誘って4人になった。これで自転車部がスタートしたんですね。

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——部員の勧誘から、スタートした競技開始ですね。マンガみたいにそれでなんか勝っちゃった、ってわけには行かなそうですね。

自転車部としての最初のレースがチームタイムトライアルだったんですが、やっぱりみんな弱すぎてね。1年生のオレが1人で全部引いてるのに、ふと後ろを見たら、みんないなくなっちゃうんですよ。

これはどうしようかなー、って思ってたんですが、それでも高校3年間はその部活で走って、結局鳴かず飛ばず。で、そのころNIPPOとか、シマノとか、そういう大きなチームの採用条件を見てみると、そこに大卒ってあるんですよ。なるほど、大学卒業しないとロードレースってできないんだあ、なんて思っていてね。大学の推薦がもらえるようガンバってたんだけど、ハシにもボウにも引っかからなくて。成績も、高校3年でロードで30位ぐらい。トラック競技もインターハイには出たものの、大した結果は出なくてね。

でも、たまたまやってたシクロクロスで、ジュニアとして世界選手権行かせてもらえることになったんです。そこに飯島さん(飯島誠=元ブリヂストン アンカーチーム員)率いるチームラバネロが来ていて、そこで高村さん(高村精一さん=チームラバネロ監督)に「来年うちのチーム来たら」って誘ってもらえた。それで東京に来ました。

——なるほど、特に自転車選手になりたかったわけではなかったけれども、やってみたらやっぱり速かった。それでみなさんの目に止まって、高校卒業と同時に選手生活ということだったんですね。

シクロクロス世界選の成績もちょっと良かったですし、自分では自信もあったんですね。でもラバネロ時代、実業団レースでは、ほとんどキツくて完走もできなかったんです。そんなことでも夏に、イタリア遠征に行ったんですよ。60万円ぐらいかけてね。その時に、チームNIPPOが同じ所で合宿していて、一緒にトレーニングなどさせてもらってたんですが、合宿も終わって帰るときに「お前これからどうするんだ?」って聞かれてね。「ボクはヨーロッパでやってみたいです」って答えたら、「だったら来年、こっち来ないとダメよ」って即答されて。

当時、大門さん(大門宏さん=現NIPPOヴィーニファンティーニ監督)が、チームNIPPOで若いライダーの育成を行っていて、そこに合流したいと思って家に帰ってきて、お母さんにね、「来年イタリアに行きたいんだけど……」って。

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一時はロードを諦めるも再び舞い戻り、そして肝移植

——そこはやっぱり宮澤さん、お母さんに相談ですね。

だってお金ないから。その時もかなりの金額がかかってたんですよ。自分で銀行にお金を下ろしに行って、現金を持って大門さんに渡して。それでいろいろ手配してもらって、生活させてもらってた。

で、ジュニアの年齢が終わってU23になった1年目にイタリアに渡って、現地のアマチュアチームに入ったんです。 チーム員のほとんどが23〜25才、エリートクラスのチームだったんです。2000年に世界選チャンピオンになる選手、ヴァインシュタインスもいたぐらい、めちゃくちゃ強いチームだったんです。オレなんかレースでも全然完走できなかったんですけど、まあ練習を一緒にしてるだけで、強くなってったんですね。日本に帰ってきたら、いろんなことが楽でしょうがないんです。

練習で、トラックの中をバイクペーサーの後ろについて 時速55kmぐらいで走ってて、ボクの真後ろでピストバイク乗ってモガいていてるヤツがいても、うわハン(ハンドルの上)を持って走れるぐらい、余裕があったんです。このイタリアで過ごした一年間はそれぐらい、自分にはすごく影響のあった年になったんです。

その後にNIPPOに入ってツールド北海道に出場、その次の年はマペイのスポンサーするチームに入って、イタリアで生活をしていました。その時一緒に生活していたルームメイトが、ある日「このままやっていて、オレたちどうなるんだろうな」ってしみじみ言うんです。実際、当時はイタリアのプロ連中と、どうしても埋めることのできない大きな差というのがあったし、実は当時、日本にすごい好きな女の子がいて、もう日本に帰りたくてしょうがなかった(笑)。そうなると、もう「オレたち、ここにいて何になるの?」って気持ちになっちゃって、22才の時にロードレースを辞めたんです。それで競輪学校を受験しようと思った。

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——なるほどー、そういう経緯があって競輪選手になろうと思ったんですね。ずっとイタリアのチームを渡り歩いてきて、それで突然なぜ競輪に? とは思っていたんですが。

それで日本に帰国して、2年間日本で競輪選手になろうと思って頑張った。もうカラダとかすごい絞って、ムッキムキになった。スクワットで体重の3倍、180kg上げてたんぐらいです。それでも競輪学校の1次試験は通ったんだけど、2次試験で全然タイムが出なくて不合格になって。 やっぱり違うな、どうしようって思ったんですが「やっぱりロードやろう」と。で、大門さんに「もう一回NIPPOに入れてくださいって」連絡して、入れてもらったんです。

で、ロードに戻ってきた時に、日本での活動から始まったんですが、今度はそれがすごくイヤでね。たまたまその年の東日本実業団レースで、ブリヂストン アンカーチームと同じ宿だったんです。その時「そういえば、BSってなんかフランス行ってたな」って思いついてね。監督の浅田さん(浅田顕=詳しくはこちら!)に話をしてみようと。浅田さんを呼び出して。

——呼び出して!(笑) 「お前ちょっと来い」なんて浅田監督を(笑)

そうそう、それでチームに入れませんかという相談をしたんです。そしたら「考えてみる」って言ってもらえて。そんなこと言われてもう、ウキウキしちゃって、次の日のレースで1周目から逃げたんですよ。そしたらそれが勝ち逃げ(ゴールスプリントまで持ちこまれる逃げ)になっちゃって。そこで2位でゴールしたんです。でもそのレースの後にオレ、肝移植をしたので。

——お母様にご自身の肝臓を移植されたんですよね。自転車選手生命が絶たれるかもしれないというリスクを背負って。

その手術は2001年の9月10日でした。次の日が9月11日で、目が覚めて激痛の中テレビで見たんで、よく覚えてるんです。だからその年の成績で言えば、その2位しかオレはなかった。まあその前の5月にもツアー・オブ・ジャパンの東京ステージで5位に入っていてはいたんだけど、その程度。

その頃に浅田さんに連絡したんだけど、「来年獲る選手は決まりそうだから、君は他のチームを探したほうがいいかもしれない」って言われて始めていて。でもその時ヨーロッパで走っている他のチームはNIPPOしかなかったし、でもオレは環境を変えたいと思っていたんで、ブリヂストン アンカーしか選択肢はなかったんです。だから他のチームと交渉してって言われても、「やだー」なんて言って、交渉しなかったんです(笑)。

それで11月にまた連絡したら、「もう枠は決まってしまったから、他のチームへ」って通告された。それで浅田さんに、今一度、と手紙を書いたんです。そしたら、数日後に「無給でも良かったらいいよ」って言ってもらえて。こっちは「全然オッケーで~す」なんて二つ返事で。

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アンカー入り直後に重なる(自業自得の)悲劇群

——ついにブリヂストン アンカー入りですね。肝移植の直後「毎日3時間の腹筋運動を行った」なんて、宮澤さんのインタビュー記事で良く読みますが、その激烈なリハビリ期に無給でのチーム入り、劇的ですね。

そうそう。そんなんで、とりあえずチームに入れさせてもらったんです。で、入ったは良かったんですが、そのチーム入りした最初の冬は、長野の乗鞍高原スキー場でバイトもしてたんです。それで仕事の合間にスノーボードに行ったら、なんかね、立木にぶつかって、肩を脱臼しちゃったんです。

自分ではよく覚えてないんですが、木にぶつかって「うわっ、肩痛い」と思って気を失って、次に目が覚めたら下山するソリの上に乗っているんです。次に気がついたらストーブの前、でまた記憶がなくて、その次は救急車に乗っていた。その次に目が覚めたら、病院のベッドにいる。医者が肩持って、「はい、入れますよ~ガコン!」って、肩の脱臼を入れなおしてくれた。痛え! なんてすっかり目が覚めて、なんだなんだ、って思っているうちに、だんだん、やばいやばい、どうしようってパニックになり始めて。

とりあえず、浅田さんに、電話をして。

「すいません! 
  『トレーニング中に』転んで、肩脱臼して!」

——トレーニング中に!(笑) どうせ浅田さんにはすぐバレちゃうのに(笑)

浅田さんも「しょうがないなあ、早く治せよ」なんて言ってはくれたんですけどね。まあ治せよって言われても、もう脱臼は治ってるんで、そこはリハビリ次第。で、手術からの復帰も、その脱臼もあってその年のオレ、ウェイトトレーニングもかなりガンバっていたんです。

でね、当時ボクが住んでたところって5階にあって、エレベーターがないんですね。それでウェイトトレーニング行こうと思って、自転車を下ろして1階の入り口に置いて、また5階の家まで荷物取りに行って、降りてきたら、そこに置いてあったはずの自転車がね、、、ないんですよ。

——なんと! でも笑い事じゃない(笑)

「アレーッ?!」 って思ってね。家まで持って上がったかな、って思い直して、5階まで上がってもない。下に降りてきても、やっぱりない。ガンガン目を何度もこすってこすって、頭ブルブル振って、「エーーーーーッッッッッ!?」 って。

浅田さんに脱臼の報告をしてから数週間後ですよ。また浅田さんに電話をして、

「浅田さん、
  自転車、、、、盗まれました」

もうこの時ね、浅田さんのことをね、本当に可哀想だなって思いましたよ。

——海外で走れるレース環境を求め、それだけを求めて現状を変え続けてきた宮澤さん。無給で滑りこんだブリヂストン アンカーチームでは、脱臼、そしてバイクの盗難と、自業自得のトラブルから始まります。次回は、チームからのクビ。そして華麗なる復活。次号のあんかーちょうちん、宮澤崇史「クビになったオレがしたこと!」震えて待て!

<Vol. 02へ続く>

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宮澤崇史
bravo代表。2008年北京五輪ロード出場、2010年全日本選手権ロード優勝。日本を飛び出て主に海外ロードレースを主戦場として活躍。肝臓移植から第一線の選手へと完全復活を遂げた唯一とも言えるスポーツ選手。2014年に選手引退後も、監督業、公演、レース解説、TV出演など幅広く活躍。その独特の表現と信念、経験と温度感、そして説得力に吸引力を加えたトークと知識で幅広く自転車レース界を飛び回る。
http://bravo-tm.com
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取材協力/ホルモン道場源氏
アンカーチーム員に長く愛され、 勝利の喜び、悔し涙といろんな悪口を言葉通りに立ち込める煙に巻いてきたホルモン焼き屋。そのホルモンはアンカー選手の血となり肉となり数々の勝利を共にメイクしてきたよう。
埼玉県上尾市谷津2-4-5 TEL: 048-773-9222
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。