あんかーちょうちん
福島晋一

ANCHOR-CHOCHIN
勝ったのに怒られた男・兄編
vol.1
Photo: Kei TSUJI

 ブリヂストン アンカー サイクリングチームに所属していた猛獣、いえ伝説の選手たちを招いて1杯、2杯とお酒を注ぎ、目尻も赤く気分も万々歳になってきたあたりの話を拾ってお伝えするコーナー、あんかーちょうちんがまたまた呑んでまいりました。

今回ご一緒させていただいたのは、福島晋一さん。96年にアンカーチーム入りし、2003年に全日本選手権を優勝、2004年のツアー・オブ・ジャパンで日本人として初の総合優勝を果たしています。その後はタイを中心とするアジア地域でのレースへも積極的に進出。晋一さんが作った足がかりを頼りにその後多くの日本人トップ選手が冬季合宿を行うようになるなど、アジアシーンに目が向けられる大きなきっかけとなりました。

現在はチーム NIPPO VINI FANTINIのサブ監督を務める福島晋一さんを、今日はインド料理屋にあんかーちょうちんを吊るして迎えます。なお晋一さんのことを「福島さん」と呼ぶ方は、レース界にはあまりいません。というのも晋一さんには、アンカーでのチームメイトでもあった大変刺激的な弟さん、康司さんがいらっしゃるからです。

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「スポーツでひと華咲かせる」ため自転車を始めた

——まずは、晋一さんが自転車選手になるまでの流れから教えてもらえますか?

高校生の頃までずっとサッカーをしていたんですが、信州大学に入学して自転車競技部に入ったんです。そこからいきなりレース人生。というのもね、弟が陸上でわりに成功してたんですよ。だから「オレもスポーツでなんとかひと華咲かせたいな」と思ったんですね。

で、まず最初に入ったのは陸上部。でもこれが全然ダメで。同時に自転車競技部入って。そしたら自転車競技のほうがパッと伸びた。「こりゃいけるな」と。

——でも、なぜ突然に自転車に?

ツーリングが好きだったんですよ。高校2年のときにロードマンに乗ってキャンプ行ったり。ロードマンですよ、ロードマン。ブリヂストンの(笑)。

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——それで’94年、在学中にオランダに自転車留学されたですよね、これはどういう流れで?

長野県で学生をやっているとき周りに、なんていうか、自転車に「熱いもの」を持った人がたくさんいたんです。その人たちにけしかけられましてね、「自転車やるんだったら外国行かなきゃ」と。

最初は「オーストラリアに行ったほうがいいんじゃないか」って言われたんです。それで休学してブリスベンに行く予定だったんですよ。そしたら大石一夫さん(現ショップ『シクロラブニール」店長)に、「それは違うだろ、ヨーロッパに行かなきゃ」って言われて、昔オランダに行ってた方を紹介してくれて、その方がオランダでホームステイしてた先を紹介してくれた。それがエゴン・バン・ケッセルさん、オランダ ナショナルチームのコーチをしてる人だったんです。

なんですが、当時のボクは生活がすごく乱れててね。日本の大学では寮に住んでたんですが、壁には落書きが普通にあるような 汚いところですね。そういう生活から一転、オランダのステイ先で「ここはあなたの家だから、好きに使ってくれ」と言われましてね、言われたまんまにくつろいだわけです。

実はオランダって、家の中を磨き上げて展示する、ぐらい景観を大切にする文化なんですね。そういうオランダ文化の中で、くつろいじゃったボクが、窓辺に好きに洗濯物を並べて干したりしてたわけですよね。そしたら一回家を放り出されましてね。

——海外に出て、いきなり問題児ですね(笑)。で、96年にブリヂストンに入ったと。その経緯は?

オランダ行きで1年間休学したんで、大学に5年間いたことになるんですよね。でも学連登録って4年間しかできない。だから最後の1年は長野の「アズミノ」というチームに入ってレースをしてたんですね。そこに鈴木真理(現宇都宮ブリッツェン所属選手)がいましてね。彼と一緒にレースに行った帰り道、クルマの中で真理が「それでさー、オレBS(ブリヂストンチーム)から誘われてるんだよねー」って言うんです。ボクはそのとき別のチームに入りたいと思ってて、へー、なんて適当に相槌打ってたんですが、そのうち真理が「BSってさ、金あんだよねー」って言うわけですよ。

その言葉を聞いて「そーなんだー、そーなんだー」と変わらず相槌を打ちながら帰ったんですが、その足で松本にある、当時オープンしたての『ミタニサイクルマインド』に行って、元ブリヂストンの選手で店長の三谷さん(三谷寛志さん)に、

「ブリヂストンに入りたいんです。紹介してください」って挨拶した。

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「ボクが選ばれないのはおかしい」といちゃもんを

——「金がある」の一言で突然の鞍替え! まあ実際そうなのかどうかは知りませんけどね(笑)。

そしたらミタニさんが「じゃあ紹介してあげるよ」と。それで気合入って次のクリテリウムで5位になったんですね。それも積極的に走れて、最後はアタックをし続けて5位になった。それを見たブリヂストンチームの部長が、コイツなら獲ろう、って決めてくれたんです。藤田さん(藤田晃三さん=元ブリヂストンチーム員)は反対したらしいんですけど。

——チームに入りたては、どんな選手だったんですか?

ボクはチームで一番弱い選手でした。当時チームメイトと最下位を争っていたんですよ。

ある日、ツールド東北ってのがあったんですよ。その後にあるツール・ド・北海道にチームから出場する選手の選考でもあってね。藤田さんがステージ優勝して、渋谷(渋谷淳一さん=元ブリヂストンチーム員)もステージ優勝したレースでね。

その、とあるステージで、ボクは渋谷をアシストしなくちゃいけなかったんだけど、途中でアタックして、BSが追う集団から、単独で逃げきって勝ったんですね。ゴールした後、藤田さんがボクにわーって向かってきて、褒めてくれるのかなと思ったら、「福島、勝っちゃだめだよ!」って怒られたんです(笑)。

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——一番弱かったのに、勝った! しかも勝ったのに、怒られた! オランダ時代から変わらずの問題児ですね。

そうそう、その後も当分「勝って怒られた男」なんて呼ばれましたけどね。でもまあ、このレースでステージ優勝できたから、当然メンバーに選ばれると思ってたんですね。

そしたら、浅田さん(浅田顕さん=当時のチーム監督、詳細はこちら)が電話かかってきましてね。「福島、お前なんで電話かかってきたか、わかるよな?」って。「あれ、もしかしてボク、北海道走れないんですか?」「そうだよ」と。 ボクではなく、もう一人のチームメイトが経験のため、という理由で選ばれたんです。一応、わかりました、とは言ったんですが、でも電話の最後で、浅田さんがポツリと「でも、お前のほうが強いんだけどな」って言って切った。その一言がどうしてもひっかかっていて。

で、ミーティングのときに「ボクが選ばれないのはおかしい」っていちゃもんつけたんですね。選ばれなかったのは、鈴木真理とボク。真理は「ボクは別にいいです」なんて言ってたんですが。それで会議が始まって、会議というよりチームメイトとボクの言い合いです。彼も相当に怒ってて。

結局最後は、その次にある全日本実業団の成績で、よかった方を北海道に出そうというて話になって。そのときに、真理が「あ、やっぱりボクもやりまーす」って言うんで、嫌な予感がしたんですよね。 めちゃくちゃ嫌な予感が。

そのレースでボクはアタックしまくったけど逃げ切れなくて、最後集団スプリントになった。チームメイトは既にそこにはいなくて、ボクがスプリントでもがいてたら真理がそこに並んできて、ボクをチラリと見たかと思うと、そこから前に行っちゃった。結局、選ばれたのは真理だった。

こんな風に、当時のボクは、選手としてぜんぜん模範的ではなかったんですよね。浅田さんが言うことを聞かない選手がいた、ってのはたぶんボクのことなんですよね。そんな感じありましたもんね。でも浅田さん、ほんと良くしてくれたんですよ。「お前はオレの宝だ!」なんて言ってくれていて。でも「なんで『宝』なのに北海道を走れないんですか?!」って。

——そんなのもあって、チーム入り2年後の’98年にフランスに渡ったと。これはチームを抜けたんですか?

いえ、当時ボクはブリヂストンサイクルの社員になってましたから、休職させてもらってフランスのアマチュアのチーム、その後はベルギーのプロチームに、合計で6年間入ってたんですよ。アンカーチームに所属しながら、別のアマチュアチームにも。当時のアンカーチームもアマチュアだったんで、2チームに所属する形だったんです。

そしてアンカーチームが2003年にプロに、当時はTT3と言われていたコンチネンタルチームに、プロチームになる、というんで、浅田さんが戻って来てくれと。

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監督の意向を差し置きチームキャプテンに立候補 → 大成功

——それで2003年に帰国してから全日本で優勝し、次の年はツアー・オブ・ジャパンでも総合優勝。晋一さんのいわゆる快進撃がそこから始まるわけですね。

ボクは、いつも、いろんなことを思いつきでやるんです。例えばレースを走ってて、なんか、今自分が行ったら逃げが決まるだろうなとか、そういう感覚が自分の中に感じるんですよね。で、その感覚にしたがって、今行けばいい! ってときに行くと、10中8、9は逃げに乗れて、で結果として成績が残っていった。フランスとベルギーで、そのあたりの感覚が磨かれたのかな。

で、帰国したとき、チームのキャプテンが不在だったんですよ。一年ぐらい。で、浅田さんは、当時チームにいた橋川さん(橋川健さん=現チームユーラシア監督)にはキャプテンを任せられない、って考えてたようで、渋谷をキャプテンにって話があったんですよ。でも渋谷もフランス語はしゃべれないので、渋谷がやるぐらいならボクがやります! って立候補した。

そのときに思っていたのが、今まで自分のなかで、こうしたらいいんじゃないかと思っていた自分だけの感覚を、勇気を出してチームのみんなに言ってみたら、チームの為になるんじゃないか、ってこと。

それをするためにキャプテンに立候補して、それからは無線で常に「もうそろそろ決まると思うぞ」とか「オレが行くよりアナタが行ったほうがいいよ」とか、そういう風に積極的に伝えていきました。そしたら、それがいい方向にハマっていったんですよね。チームも成績をどんどん出してきて。そしたら選手もみんなボクを信頼してくれるようになってきた。

ボクは、いつも野心を持っているんですね。フランスに行っていたときも、行くなら行ったで、自分からいろんな人間と積極的につながりを作って。それが高じて、その後は選手を受け入れて、最後はチームまで作ってみたり。

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——(ここで晋一さんをよく知る現チーム担当M氏が口を挟む)今のアンカーチームがフランスに行き始めたきっかけは、もちろん浅田さんだったんですが、その後フランスに行って、アンカーチームが走るための地盤というか地元との繋がりを作ったりしたのは晋一さんだったと思うんですよ。そうして晋一さんが繋げた地盤に、チームが入っていったという感じがしましたね。

多分ぼくは、浅田さんにとってのキーパーソン、だったんでしょうね。キーというか、新たな場所への鍵を開ける、鉄砲玉みたいなもんだったんでしょうね(笑)。

でも、その、なんですかね。フランスでの話で言えば、途中で弟をフランスに呼んだというのが、一番大きかったですよね。。。。

一番弱かったライダーが、フランス、ベルギーで6年間の欧州修行を通し、新たなる実力と勝負勘を身につけた。その勘を、キャプテンとして活かすことで、チーム全体の士気も結果も上がってきた。「面白い人が集まってくる」晋一さんの本領と快進撃は、この第2次アンカーチーム入りから始まっていきますが、その前にやはり出てきた、弟さん、康司さんの話。

次回のあんかーちょうちん福島晋一編は、晋一さん+康司さんの伝説的兄弟レーサーユニット(?)『福島兄弟』の話をお送りします。日本はおろかアジアレースシーンにまでその名を轟かせたTHE フクシマ・ブラザーズ結成秘話とその活躍を、お楽しみに。

<Vol. 02へ続く>

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福島晋一
大学在学中に自転車競技を始め、在学中にオランダへ自転車留学。1996年にチームブリヂストン・アンカー入り。1998年〜フランス、ベルギーで活動。ブリヂストン アンカーがTT3に昇格した2003年に全日本選手権ロードレース優勝。2004年にはツアー・オブ・ジャパンで日本人選手初の総合優勝。2005年タイのツアー・オブ・サイアム総合優勝。2005シーズンでチームを離れた後も活躍を続け、2013シーズンを持って引退。現在はチーム NIPPO VINI FANTINIの監督として采配を振るう。ニックネームは『フグ』。
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取材協力/JYOTY[ジョティ] 浅間台店
アンカーの本拠地、北上尾にあるインド料理店。古残のチーム員にはあまり馴染みがないが、ブリヂストンサイクルの若手の間で、じわじわと人気の高まるスパイシー系カレーが美味しい。人命救助で警察に表彰されたこともある、心優しき店長がお迎えいたします。
埼玉県上尾市浅間台2-10-23 TEL: 048-775-5588
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。