あんかーちょうちん
福島晋一

ANCHOR-CHOCHIN
開拓者として、日本のお兄ちゃんとして
vol.3
Photo: Kei TSUJI

ブリヂストンアンカーの時代を築いた名ライダーと呑み交わし、当時の話を聞き出す赤ちょうちんならぬあんかーちょうちん、今宵は福島晋一さんの最終話。弟・康司さんの話が終わり、タイ合宿を率いて日本のお兄ちゃんとして育っていきます。アジアで強いフクシマブラザーズのお兄ちゃんで、日本最強の自転車レーサーとして、常に高みと新天地を求めました。そのお兄ちゃんの元に、現代日本レースの素地を築く人々が集まります。

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タイで始めた合宿に、トップ選手が集まり始める

——晋一さんといえば、今ではタイ、アジアというイメージが強いんですね。今、日本のトップロード選手がこぞって冬場のトレーニングに向かう、いわゆるタイ合宿の設立者という感覚が大きいです。

そうですね。ボクがチームあずみの時代にお世話になっていた方、中川さんっていうんですが、その方がタイに移られたんです。で、ある時に連絡したら「タイはいいところだから、練習に来なさい」って言うんですね。

なるほどと思って、浅田さんに「タイはいいところだって言うんで、合宿しに行っていいですか?」って聞いたら、浅田さん、また頭を抱えて「またコイツなんかいい出したよ」と。

ボクは、その中川さんの一言だけを信じて、タイに行ったんです。直感だけですね。それでもタイで1ヶ月練習して。その帰る間際に、コウジをこっちに呼んだんです。弟はオレが帰る1日前に到着して、彼はそこからまた1ヶ月またそこで合宿しました。

タイに行き始めてから4、5年の間は、全部で6人ぐらいでやってましたね。今みたいに多くなかったですよ。ボクがどんなに「タイいいですよ」と言っても、誰も信じてくれないんです。

2年目ぐらいに雷太(鈴木雷太さん)と大前さん(サイクルジャーナリスト・大前仁さん)が来てくれて。そのあと、タカシ(宮澤崇史さん)も来て。

来て1年目、そうそうにタカシはタイが気に入ってね。「オレってタイ人」とか叫びながら、もう焚き火はするわバイクでは転ぶわ車は事故るわで、やりたい放題。それでそのあと膝が痛いって泣きながら日本に帰ってったんですよね。もう来ないかな、と思ったらまた次の年に来て(笑)。今度はちゃんと準備してきたんですね、失敗した後ですから。そこでまた、タカシとは一緒に最後まで練習して。

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——それは、宮澤さんのいわゆるブレークスルー(詳しくはこちら)の、その時?

いいえ、それはまたその後のことですね。それでタカシがタイで嵐のように来て、嵐のように帰っていったタイデビューなんですけど、そこからなんだか人が増えだして、気がついたら10人になり、20人になり、多いときは30人ぐらいいたこともあります。

そんなタイ合宿にいくボクにもプレッシャーがあってね。「タイで合宿して成績悪かったら、もう行かせてくれない」。浅田さんにタイで合宿したっていう成果を見せなくちゃいけなくて、それで頑張ったというのはありますね。ちゃんと成績出してね。

2000年からタイに行き始めたんですけど、2001年には、フランスのアマチュアのトップカテゴリーのレースで優勝した。その後もUCIレースで総合2位に入って。それで2002年は、ツアー・オブ・ジャパンの宇都宮ステージで優勝して、2003年は全日本チャンピオンになって、2004年はツアー・オブ・ジャパン総合優勝と。

新城家で深夜幸也くんに足を揉んでもらう

——有無を言わさない結果をちゃんと出したと。

コウジをフランスに呼んだときもそうでした。コウジが来たからダメでした、という言い訳はできませんからね。とにかく認めてくださいって言って、呼ばせてもらった。ユキヤ(新城幸也選手=2016年度ランプレ・メリダ)のときもそうでした。自分にそういうプレッシャーになってるんですよね。もちろん普段から練習相手がいるというのは、相乗効果になるんです。人と話しながら練習できるし、強度も上がるし。

——その、新城幸也さんとはどのように関わったんですか?

もともと、うちの親が転勤族で、岩手に住んだり、沖縄に住んだりもしてきました。で、実家が沖縄に引っ越したときに、「沖縄県に登録したら、国体に出られるよ」って入れ知恵された。それで沖縄に登録して、屋我地島の国体予選で「ボク優勝します」とか宣言して走るんですが、全然チギレてるわけですよ。

そのとき、前におじさんが走ってたんです。で、レース終わった後に「おじさん、強いですね」って声をかけたら、「お前も強いな」って言ってくれて、それが新城さん、ユキヤのお父さん、新城貞美(さだみ)さんだった。当時、実はボク沖縄の高校生から自転車のことを教わりながら走ってたんですね。そのグループのコーチが貞美さんだった。それを貞美さんは紹介してくれたんですよ。そのときユキヤは9歳。

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——へー。それはまた偶然というかなんというか。

最初にユキヤの家に行ったときも、ボクが大学の時にオランダに行って休学してたんで、半年暇だったんですよね。それで貞美さんに電話して、「石垣島遊びに行っていいですか」と。

そしたら来い来いってことだったんで、遊びに行ったんです。ふまじめな自分はバカンスのつもりで自転車を持たないで。そしたら「おい晋一、自転車どうした」と。自転車は持ってきませんでした、と言ったら、わかったと言って、島中から自転車用具を集めて、自転車からシューズ、ヘルメット、ジャージまで用意してもらえてくれて、「練習行くぞ」と。ああ、そうですかという感じで結局練習したんですが。

そしたら次の日は、今日は西表まで行ってこい、と。わかりました、観光で来てるはずなのに。西表に行って50km離れた港までいって返ってくる。

ユキヤのお父さんは、熱いんです。新城貞美さんは、熱い心を持っているんです。他の選手と家に行っても泊めてくれたり、すごい情熱があるんですね。

——なんか、家族みたいなものだったんですね。

ユキヤがハンドボールをしているときに、家に泊まりに行ったんですよ。大人たちは、外で午前3時まで飲んできてるわけです。新城家の前に、珊瑚の壁があるんです。この珊瑚の話を何度も聞いたあとに、「もう一軒いくか」って話になってどっかもう一軒行く。そして帰ってきて、ユキヤを叩き起こして、「幸也、晋一の脚を揉め」と。

眠いところを起きてきたユキヤは、ぼくの脚をずっと揉んでくれてるんですよ。明日学校なのに、揉んでくれてるんです。しかも、ゆきやは右脚ばかりをマッサージしてくれれて、ちっとも左脚に行かないんですよ。

ボクも申し訳ないけど、そろそろ左脚に行ってもらわないと、と思いつつも。ユキヤもタイミングがつかめないんでしょうね。だからもう、最後までずっと右脚を揉んでて、そうしてるうちに弟のコウジを揉んでいたお父さんがそのまま寝ちゃうんですね。それでユキヤに「もういいよ、ありがとう…」っていうと「わかりました…」ってなってね、もうなんか…。

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いろんな失敗をしてきたひとが、 監督になるのもいいかな

——話を戻すと、それからアジアのレースに新天地を見出したということですね。

でも、ボクも別にアジアがどうこう、ではなくて、タイによく行ってるから、タイのレースに、アジアのレースに勝ちたいな、というところでね。

それがあるとき、ツール・ド・ランカウィでボクがステージ優勝したときに、シンガポールの友人が「アジア人が勝って嬉しい」って言うんですね。これまでこのレースはヨーロッパ人ばかりが勝ってきたけど、アジア人が勝って嬉しい。って。

日本代表として走ると日本人の人が喜んでくれるように、アジアの人もそういう目でオレたちを見てくれているんだな、というのが目からウロコで。おれはやっぱりアジアを代表してるんだな、って。

——選手として福島晋一はなぜ強かったのでしょう?

ただ力がすごいあったわけではないんです。BSに入ったときも、一番弱い選手で入ったし、期待されて華形選手であったんではない。期待されずに入って、雑草のように伸びていったというか。とにかく海外に飛び出していって、そこで道を、自分で見つけるというか。自分って開拓者なんですよね。そのあとのアフターケアは苦手なんですけど。そこで周りの人に恵まれてて。

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——やっぱり、やるときにやる、という感じがいいんですね。

マイナスなところを、プラスで補って生きてきた、結果オーライというね。なんかこう、人脈のつながりというか、これはこういう人に頼むといいんじゃないかなとか、そういうことの勘が良かったというところでしょうね。

自分が才能に恵まれていたとは思わないです。でも今、監督としてやっていて、非の打ち所のない監督もいると思いますけど、これまでいろんな問題を起こして、いろんな失敗をしてきたひとが監督になるのもいいのかな、と思います。ただし監督は結果オーライだけではダメですが…。

そういうなんかこう、自分が失敗ばっかりしてきたんで、そういうところで、選手にアドバイスができるのかな、なんて思ってるんですけど。

——自分が絶対にやられたくないと思ったことをやらない、ということですね。

だけど、今の時代になると、とかくレース運びがよくて最後のスプリントで勝ちましたって話が多くなるんですけど、本当は、レーサー同士が勝ちたい気持ちがぶつかり合って、やりあったっていう話のほうが長く残るんですよね。

ただ普通に勝ったっていうだけよりも、なんかその、ぶつかりあって、結局、田代(田代恭崇さん=元ブリヂストンアンカーチーム員)とボクとも、2人が2人とも勝ちたかったからぶつかったんだし、浅田さんのところでやってたときも、ツール・ド・フランスに出たいっていう一つの目標を持っていて、ホント出たいっていう一つの目標を持っていて。真剣にやっていたんだよね。

——いま、レース界でケンカってあんまり聞かないですよね。

昔のレースは、人間的にドロドロしてて面白かったね。ロードレースの醍醐味ですよね、本来はそれがね。

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と、この後、フランスでのプロデビューの時に三船雅彦さんに話しかけられて話が長くてスタートに大遅刻した話とか、「あれは田代に悪いことをした」と振り返るツアー・オブ・ジャパンのスタート当日のミーティング話とか、NHKで放送されてしまった橋川さんとの大喧嘩の話とか、光宏さんにフレームを賭けて勝負して見事フレームをゲットした話とか、現在のイタリアのチーム監督はどのような戦略で動くのかという興味深いお話を沢山伺いました。

話はつきなかったのですが、どんどんドロドロした人間的な話になっていきましたので、あんかーちょうちん福島晋一編は、この辺でお開きといたします。晋一さんの今後のチーム監督としての活躍を祈ると同時に、ブリヂストンアンカーサイクリングチームのライバルでもあるので、そのへんは微妙なところでもあります。

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福島晋一
大学在学中に自転車競技を始め、在学中にオランダへ自転車留学。1996年にチームブリヂストン・アンカー入り。1998年〜フランス、ベルギーで活動。ブリヂストン アンカーがTT3に昇格した2003年に全日本選手権ロードレース優勝。2004年にはツアー・オブ・ジャパンで日本人選手初の総合優勝。2005年タイのツアー・オブ・サイアム総合優勝。2005シーズンでチームを離れた後も活躍を続け、2013シーズンを持って引退。現在はチーム NIPPO VINI FANTINIの監督として采配を振るう。ニックネームは『フグ』。
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取材協力/JYOTY[ジョティ] 浅間台店
アンカーの本拠地、北上尾にあるインド料理店。古残のチーム員にはあまり馴染みがないが、ブリヂストンサイクルの若手の間で、じわじわと人気の高まるスパイシー系カレーが美味しい。人命救助で警察に表彰されたこともある、心優しき店長がお迎えいたします。
埼玉県上尾市浅間台2-10-23 TEL: 048-775-5588
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。